ガブロヴォ (Gabrovo)
ガブロヴォを取り巻く地域は、新石器時代から人が居住しており、12世紀にヴェリコ・タルノヴォが第二次ブルガリア帝国の首都となると、その経済的重要性を増した. 首都と、バルカン半島各地を結ぶ交易路に近かったガブロヴォは、職人と交易の街として繁栄した.
よく知られた伝説によると、ガブロヴォはラチョ(Рачо / Racho)という鍛冶屋によって始まった街とされる. ラチョの暖炉のそばに1本のシデの木(ブルガリア語でガブル габър / gabar、en)があったことが、この街の名前の由来となっている.
オスマン帝国がバルカン半島に侵入した14世紀、ガブロヴォの人口構成は大きく変化した. オスマン帝国に征服された首都や周辺の要塞から脱出したブルガリア人たちにとってガブロヴォは魅力的な場所となり、多くの人口が流入した. ガブロヴォは村から町となり、経済的、文化的、そして経済的中心地となった.
オスマン帝国支配下において、豊かな交易商人らによって多くの富みが町の設計に使われた. 最初のブルガリアの学校、アプリロフ国立高等学校(Национална Априловска гимназия / Natsionalna Aprioviska gimnaziya、en)は、1835年にヴァシル・アプリロフ(Васил Евстатиев Априлов / Vasil Aprilov)とニコライ・パラウゾフ(Николай Христофорович Палаузов / Nikolay Palauzov)からの寄進によって建てられた. ガブロヴォは1860年に公式に町となった.
1878年のブルガリア解放の前後、ガブロヴォはその経済的な伝統により、産業の中心地として発達した. いくつもの株式会社が設立され、工場が建ち、証券取引所との強い結びつきが生まれた. ブルガリアのマンチェスターとして宣伝されることもあった.